2007年度の本科の入学定員は、1万0935人(国立9680人、公立760人、私立495人)、学科系別の入学定員は、機械系2205人、電子電気系3135人、情報系1770人、化学系1240人、土木建築系1480人、商船系200人、その他[10]905人であった[11]。 国公立全高専の在学生は2007年5月1日現在、本科(5年制の課程)、専攻科(本科を経て入学する2年制の課程)及び聴講生・研究生等をあわせて5万9386人(男子5万0016人、女子9370人)、本科のみでは5万6218人(男子4万7227人、女子8991人)であった。また、2007年3月の本科卒業者数は1万0207人(男子8462人、女子1745人)、うち大学編入等(専攻科を含む)の進学者は4253人、就職者は5546人、専修学校・海外の学校等の入学者は159人などとなった[12]。 日本は、太平洋戦争に敗戦した後、アメリカ教育使節団の勧告により、学校体系を6・3・3・4制に一本化する単線型の教育制度を導入するなどの学制改革を行った。これにより、旧制専門学校と、旧制高等学校を経て入学する旧制大学に分化し階層化がなされていた複線型教育制度が廃止された。 だが、1950年代に入ると、吉田茂首相の私的諮問機関・政令改正諮問委員会が高校段階の外国為替証拠金取引 を含む5年制ないし6年制の「専修大学」(学校法人専修大学の設置する大学を指すものではない)制度の創設を答申。旧・中央教育審議会は、これに追随する答申をまとめた。日経連や経団連などの財界・産業界も、敗戦後の急激な工業化に即応するため、戦前型の旧制工業専門学校に見合う中級技術者養成を目的にした教育機関の新設を要求する「科学技術教育振興に関する意見」(日経連、1957年12月)、「専科大学制度創設に対する要望意見」(日経連、1960年12月)などの文書を次々と発し、制度の具現化を求めた。 政府は、これらの動きに対応して、専科大学法案を1958年の第28回国会に上程。だが、日本短期大学協会は、暫定的な制度とされるも大学の一類型と見なされていた短期大学制度が専科大学に「格下げ」になるのではないかと反発。野党も戦前の複線型の教育制度を復活させるものだとして反対したことから、第30回国会、第31回国会と三度法案を上程するも審議未了廃案となった。 そのため、政府は、専科大学法案に変えて高専法案を策定。専科大学法案では「深く専門の学芸を教授研究」を目的としていたものを、高専法案では「大学」の呼称を外したうえで「研究」目的を除外。さらに、工業分野に限定するなどの手直しを行い、大学・短期大学とは異なる教育制度であることを明確にしたうえで、第38回国会に上程。その結果、与党の賛成多数により、1961年、高専法は成立することとなった。 高専法の成立を受け投資信託 各地の自治体は高等専門学校の誘致合戦を展開、設置初年度の1962年には、国立12校(1期校と呼称)が開校した。以後毎年10校前後が開校し、数年のうちにほぼ現在の学校数となった。全体で1500人ほどの募集だった国立高専1期校は、平均17倍の志願倍率となり、これに刺激を受けた他の都道府県もいっそう強力に高専誘致を推し進めた結果、短期間のうちにほぼ全国に設置されるに至ったものである。また、国立高専1期校の開校と同時に、公立は東京都立の2校(工業高専、航空高専)、私立は金沢高専、熊野高専(現・近畿大学高専)など5校が開校した。 さらに、1967年には国立商船高等学校5校が、71年には国立電波高等学校3校が高専に昇格。74年には複合学科を特色にする徳山高専、八代高専が開校して、国立高専の新設は一応の区切りを迎えた。その後、2002年に沖縄高専が誕生し、04年から学生の受け入れを開始している。 なお、商船、電波以外のほとんどの国立高専は新設校であったが、長岡高専、宇部高専、久留米高専の各校は、高専制度の創設に先行して設けられた国立工業短期大学が前身である。同時期に創設された他の工業短大は、その後大学化した。高知高専は暫定的に私立校として設置され、開校翌年、国立に移管された。このほか、都立2高専[13]や神戸市立六甲高専(現・神戸市立高専)、聖橋高専(現・埼玉工業大学)は工業高校から昇格し、大阪高専(現・摂南大学)は大阪工業大学に併設された各種学校が前身になるなど、公立・私立にも既存の学校を改組したところがある。なお、各校の設置・廃止の年度については、下記の一覧を参照のこと。 国立高専1期校は1967年3月に初の卒業生を送り出し[14]、高度経済成長とも相まって、「全員が殆ど大企業に就職が内定」し、その後も、高専の設置数の拡大や景気の動向にもさほど左右されることなく、大企業を中心にほぼ10数倍の求人倍率を維持し、就職希望者の就職率もほぼ100%の実績を残した[15]。 その一方で、旧・国立高等専門学校協会(国専協)を中心にして、資産運用 の進学意欲に応えるため、専攻科の設置、大学院への進学ルートの新設、あるいは大学への編入学枠を拡大しようとする動きが浮上。専攻科の設置はいったん断念し、高専卒を受け入れる工業技術大学(院)・科学技術大学院構想を策定して方向転換したものの、実現には至らなかった。その後、国専協による旧文部省などへの働きかけにより、主に3年編入を受け入れ、修士課程に連なる4年間の課程を前提にした技術科学大学の創設が決まり、76年に長岡技術科学大学、豊橋技術科学大学のふたつの大学が開学した。ただし、一部の国立大学では、すでに第1期生が卒業するのと同時に、3年ないしは2年編入の受け入れを開始していた[16]。 1991年には、法改正により、高専卒に対して準学士の称号を与えることになり、設置できる学科は工業、商船分野以外にも拡大。これにより、福島高専、富山商船高専、宇部高専の各校には文系学科が誕生。芸術・デザイン分野の学科を設置する札幌市立高専も新設された。さらに、専攻科の設置が認められ、修了生は学位授与機構の審査を経て学士号を取得できることになった。2008年度現在、専攻科は国立1校(沖縄高専。09年度に設置予定)、閉校予定の都立2校(統合校の産業技術高専には設置済み)、私立1校を除き全校に設置され、ストレートに大学院に進学することも可能になった。 高専の平均志願倍率は、4年制大学進学率の上昇と少子化の影響は避けられず、創設直後の高倍率から70年代以降漸減を続け、21世紀に入ってからは2倍前後(05年度で1.9%)に落ち着く様になった。また、中学卒業者に占める高専志願者の割合は、バブル期に1%近くまで落ち込んだものの、近年は創設期と同程度の1.7%(05年度、公私立高専を含む)程度までシェアを回復している。しかし、北海道東部など後背地の人口や産業の集積が薄い地方の高専においては、定員割れによる2次募集を実施する学科が発生する状況も生じている。 また、公立高専の一部は統合再編と共に本科の定員を削減(東京都立)または大学に転換(札幌市立)し、私立高専も7校(高知高専は含めない)が開校したが、大学への転換により、現在は3校に減少している。国立高専に関しては、02年に沖縄高専が誕生しているが、'06年には、宮城高専と仙台電波高専、富山高専と富山商船高専が合併方向で協議を開始するなど、国立高専の再編も始まろうとしている。'07.10には、前記の4校に加え、高松高専と詫間電波高専、八代高専と熊本電波高専も、'09.4月から統合されることが文部科学省から発表された[17]。 本科の募集総定員は、ピークであった99年度の11,070名に対し、06年度では10,935名と、漸減傾向となっている。